大阪理容業界の歴史~太平洋戦争後の組合

池田重吉氏全国理容連盟を創設

 戦後の組合は、天王寺区小橋東之町の組合事務所を空襲で焼失したので、池田重吉連合会会長と小島千代多校長は東成区大今里本町5丁目の神路幼稚園を借入れて、組合事務と大阪理髪専修学校の授業を再開した。

 

 業者の大半は店舗を戦災で焼失したり軍人や軍属として戦争に参加するなどしていたので、まず店舗の復興が急がれた。バラックに事務用椅子を使った店舗も あったが、池田会長は同業者間を奔走して組合を再建すると共に、理髪営業取締規則を法律化するため、全国組織の結成に奔走した。

 まず、関東方面の実力第一といわれた横浜の加藤忠一氏と東京の宮内荘平氏らと交流、各府県組合を訪れて結成の勧誘につとめ昭和22年5月、全国理容連盟を設立、池田氏は初代理事長となって理容師法の制定に貢献した。

昭和25~26年頃までは組合の基礎づくりで、戦前の警察単位の理髪組合がそのまま理容師会と名称を変えインフレ化していく世相の中で業界の再建に取組んでいた。

 全国理容連盟の第1回全国理容競技大会は、昭和23年に東京で開かれ、その翌年、第2回が大阪で開かれた。同年行われた参議院議員選挙で池田会長は、全国業界の支援をうけて出馬、14万票余を獲得したが、あと数千票で当選というところで惜敗した。

 この年、組合事務所も大今里から北区山崎町に新築して移転した。昭和26年学校の校名を大阪理容専修学校から大阪整容美術専門学校と改めた。大阪府整容国民健康保険組合もこの頃つくられた。

過当競争で苦しむ 保護法として環衛法を制定


 昭和26年頃までは、料金もインフレの波に乗って上昇ムードであったが、26年末、近鉄布施駅近くにできた理容学校・実習場の低料金を皮切りに府下全域に低料金競争が波及した。昭和27年、大阪府理容師連合会の池田重吉会長は公務中に輪禍にあって急死した。そのあとをうけた井手藤一会長や組合幹部の奔走にもかかわらず、昭和29年、威力営業妨害事件まで過当競争が発展した。

 同年9月「業者自ら墓穴を掘るなかれ」という言葉を残して井手会長は自殺した。そのあとをうけて梅田義明氏が会長に就任して泥沼のようになった業界の再建に乗出 した。「井手氏の死を無駄にするな」という強い叫び声と共に、大阪の連合会が先頭にたって、保護法の制定を全国理容連盟に要請、同年10月26日に熱海で開かれた同連盟の臨時総会で、理容師法の改正と保護法の立法化を要請する決議文を採択した。

 昭和31年、混乱する業界の建直しに長老格となった小島千代多氏を会長にした。理容師会を総動員して国会運動が行われ、昭和32年5月19日の深夜に環衛法が成立した。従って大阪の同業組合の創立は全国で一番早く、同年9月9日のことである。


 昭和33年、組合活動のなかで、白方松雄教育部長の発案で組合機関誌「環衛大阪」が発刊され白方氏自から編集人となって、業界の啓蒙につとめた。翌34年には、山崎町の木造建の学校を鉄筋 22階建に改築した。環衛法の制定で、混乱した大阪の業界もようやく安定の兆がみえてきたが、翌35年6月から8月まで、近畿協議会が中心になって大阪で初の理容まつりが行われた。
 昭和36年に大理環の役員改選があって、小島氏の理事長のほか、副理事長に岡本弥一郎、植田一雄の両氏が就任した。また過当競争で修業時間が 10時、11時となる店舗が多かったので、環衛法による適正化規程の発効も間近くなった7月から8時閉店を実施することになった。その PR には、北、ミナミ、阿倍野の3ターミナルを中心にして、コメディアンの大村混ちゃんを先頭に、組合員がプラカードを持って街頭宣伝を行った。

 適正化規程による基準料金は、組合の資料を もとにして同年10月21日付で、「最低料金165円、営業時間は午前9時から午後8時まで」大阪府から認可された。環衛法の施行で一応業界の安定をみたので翌37年11月小島千代多氏が引退して岡本弥一郎氏が理事長に就任した。

 翌38年5月、役員改選で岡本氏が再選され、2人であった副理事長を3人制に改め、植田一雄(守口)、榊五郎兵衛(淡路)、白方松雄(阿倍野)の3氏が就任した。大阪府の理容・美容行政は、学校の監督と資格試験、理容師の登録事務は衛生部医務課が担当し、組合や理容所の管理は環境衛生課がそれぞれ分れて取扱っていた。

行政指導に一貫性を欠くことから理容・美容の両組合から一本化が要請されて、昭和40年4月、医務課に指導係、営業指導係として一本化された。

 大阪整容美術専門学校は梅田義明校長が死去したあと埜仙太郎氏(福島)となっていたが、39年に逝去、その後任に岡本弥一郎氏が組合の理事長を辞任して就任した。組合は植田一雄氏が新理事長となった。

 昭和42年5月22日、総代会が香里園成田山で開かれ、役員選任規約を改正して、各協議会毎の選出と全地区の二本建の理事選出があった。総会後の理事会で植田氏に代わって白方松雄氏が理事長に推され、副理事長に山下寅吉(泉大津)、榊五郎兵衛(東淀川)、西岡寅一郎(生野)の3氏が就任した。その半年後、西岡氏に代って、米村勇氏(浪速)が副理事長に就任した。この総代会の理事選出方法をめぐって二十日会の一部から疑義の訴えがあって、民事裁判として裁判となったが、組合の判断を正当と認めて落着した。

大阪理容会館を建築

 組合では北区山崎町の本部事務所と大阪整容美術専門学校が老朽化してきたので、昭和43

年夏、大阪市より北区天満橋3丁目の大五ガラス跡を替地として提供をうけ、同年8月、白方理事長が建設委員長となり、建設工事部長に中村平三郎氏をあて、鉄筋4階建のビルを着工した。翌44年4月1日、同会館の竣工祝賀会が高橋幸嗣全理連理事長をはじめ関係者を招いて開かれた。

 昭和42年以来、全国理容新聞社の編集長、岡部巌氏が嘱託となって編集と会館建設を担当してきたが、44年6月正式に移籍された。昭和44年、理容師法の改正による管理理容師資格認定講習が、各都道府県で、日本理容美容協会の支部を設置して開講された。大阪では、美容業界で反対があり、理容 も一部で同調したが、大理環では支部を設けて大阪府に講習会の指定を請願、与野党にも同様陳情した。


昭和45年、万国博覧会を記念して万国理容選手権大会が、全理連と全美環連の共催で、6月15~16日の両日港区の国際見本市港会場で開かれた。大理環は実行委員会を送って会場の設営、大会の運営に協力した。また同年の役員改選で白方氏が再選せられ、副理事長に山下寅吉氏のほか、米村勇、渋谷長三(布施)の3氏が就任、常任理事に阪本常次郎(淀川)加藤哲夫(港)国保常務理事に池田一雄(吹田)校長には岡本弥一郎(西成)の各氏が就任した。

白方松雄氏が全理連理事長(2期)

 昭和45年白方理事長は、全理連教育部長から副理事長に就任した。管理理容師制度は厚生大臣が指定する48時間の認定講習会の実施をめぐって賛否両論、紛争したが大阪府は同46年末に府独自の立場で500円の受講料で、中之島公会堂をはじめ、各衛星都市の市民会館など数会場にわかれて約1万人一斉に受講した。

以後、毎年大阪府の主催によって講習会が実施されている。

 また昭和47年10月、スペインのバルセロナで開かれた世界大会には、白方理事長が審査員で出席するほか視察団を組んで大挙参加した。

昭和48年5月に白方氏が三度、理事長に就任した。翌49年2月、パーマの施術をめぐる看板表示について、鹿児島県からの問合わせ厚生省が翌日に回答したことが、美容側の陰謀による業権問題となって福岡県や愛知県な どで紛争が続いた。

 それよりさき全理連は業界代表を国会に送るため、全理連理事長の高橋幸嗣氏の後援会をつくって活動、昭和49年7月の参議院選挙に出馬して善戦したが惜敗した。ロング化したヘアスタイルは、消費者嗜好の多様化と共に、理美容混合の傾向が見られるようになった。昭和51年5月の役員改選で白方松雄氏は大理環で4選されたあと、全理連の理事長に選出され、池田重吉氏以来26年ぶりに大阪代表が全理連代表になった。

 大理環では定款を改正して、白方氏は会長となって全理連活動に専念することになり、以来2期、山下寅吉氏を大理環理事長として昭和57年5月まで続いた。理容・美容との業権争いは数年続いたが厚生省や国会議員が仲裁に入り昭和54年頃ようやく正常化した。

行政簡素化で資格問題が表面化

 業界内では慢性化した業界の不況を浮上させようと、全理連は長期 5ヶ年計画をたて、実態調査や各地で理容まつりが実施されて大阪でも3回開催された。政府は行政簡素化に伴う許認可事項の見直しから、理容師の免許制のあり方が第2次臨時行政調査会によって審議された。全理連は現行制度の堅持を主張する運動が始められ、昭和57年秋から、組合員店で消費者に署名を求めて陳情、業権を主張した。

昭和59年、臨時行政調査会は試験制度を一部改正する方何で理容美容業について答申した。両業界でもこれを受入れ、試験事務を民間団体に委託できるよう理容師法の 改正が昭和60年7月行われた。また組合では、同年5月役員改選を待たずに4月、山下寅吉理事長と米村勇福理事長が病気のため勇退、阪本常次郎福理事長が理事長に就任した。引き続いて 5月の役員改選で阪本理事長が誕生、福岡亀夫、谷幸之助、石橋晴治郎の 3 氏が副理事長、岡本弥一郎校長、常務理事に竹中信夫、近江寿夫の両氏がそれぞれ就任、山下寅吉氏は大阪府整容国民健康保険組合の理事長となった。

 大理環並びに全理連の理事長として活躍した白方松雄氏が9月15日逝去、同23日に大阪理容会館で組合葬が営まれた。大理環では昭和60年9月、環衛法による理容業の振興計画を厚生大臣から許可をうけ、振興事業対象の環衛公庫の徳利融資を行う一方、61年2月標準営業約款(Sマーク)の登録を始めた。

 第1回で3616店が登録、続いて第2、第3、第4、第5回、そして再登録が行われ組合員の約70% が登録した。これは顧客に標準技術と安全、衛生を約束する制度として発足し、現在は第1回目の5期となり、平成10年2月1日の更新を推進している。

第39回全国理容競技大会開く

 昭和62年10月19日、第39回全国理容競技大会が新築された府立体育館(難波)で約12000人の入場者で終日、賑わいをみせた。本大会は昭和24年、第2回大会を大阪で開催した以来のことで、前年の61年に大会企画委員会を発足、タカラベルモント株式会社並びに、大阪理容器具卸協同組合も参画して企画した。

 午前8時40分、バトントワラーによるオープニングに続いて、陸上自衛隊音楽隊を先頭に、大阪組合の実行委員、続いて47都道府県組合の選手団が行進、スタンドを埋め尽くした4000人余りの拍手に迎えられて入場した。新野賢三大会委員長、阪本常次郎大会実行委員長よりごあいさつ。

 午前10時10分より第1部(ベーシックアイロン)、第2部(レディスカット)、第3部(ヤングタウンヘア・フリースタイル)、技能五輪部門(A競技・B競技)、理容師の主張発表と続いた。アトラクションは、OSK 歌劇団による「華麗なファンタジー」と題して20数人による21景が美しく上演された。また同大会の前日には上本町の都ホテル大阪で全理連の臨時総会、同評議員会が開かれ、午後は評議員ら関係者を天王寺博ほか市内観光に招待した。